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子どもたちの世界

 投稿者:ふくなつ  投稿日:2009年 8月13日(木)01時01分12秒
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   「リリイ・シュシュのすべて」は一体何を伝えたいのか正直よくわからなかった。
 子ども達の間で様々な問題が次々と起こり、「えっ、なんでそうなるの」と感じることが多かった。「本当に子どものこと考えてるの?」っていう先生ぶってる先生や、万引きをした息子をすごい勢いで叩く母親。この映画での子どもの世界はちょっとやりすぎな気がするけれど、そういう問題が起こっているのは事実で、それに気付かない大人も多い。大人が見ている子供の世界って実はほんの一部なんだろうな~って思った。中学生の頃、クラスをまとめ、中立的な立場にいた私に、先生は、クラスのいじめの背景等を尋ねてきた。先生はすごく一生懸命だったけれど、私は「先生全然わかってないな~」と感じた。個々の本当の姿を理解できている先生は少なかったと思う。しっかりした優等生的な存在でいなくてはいけないと思っていた私は、中学生の頃先生に素を見せなかったし、そういう子どもも中学生くらいには結構いると思う。先生次第かもしれないけれど。今考えると、思春期だった私は、大人との間に勝手に壁を作って、理解してもらうと思っていなかったのだと思う。また、子どもは無邪気だが、時に理解できないような残酷なことをしてしまう存在だと思う。しかし、そういうことを思いつかせてしまう家庭環境や社会に問題があるのだろう。この映画では、ネット上で、リリイ・シュシュを通して親近感を感じたり仲間意識を感じている子どもたちがいる。ネット上だと自分の全てをさらけ出さなくてもお互いを理解し合えたような気になるし、都合の良いように自分をつくって居心地の良さを得ることができる。本当は、みんな誰かに自分の全てをさらけ出して受け入れて欲しいのに、その仕方を知らなかったり、それができない窮屈な社会になってしまって、それが子どもたちの世界にも波及していっているのだと思う。ここで起こっている子どもたちの問題は、大人のつくりあげた社会によって子どもたちが受けている影響を伝えているのかな~と思った。
 この映画は、常に独特の美しい音楽が流れ、映像が綺麗だと思った。特に女の子が自殺してしまうシーン、襲われてしまうシーン、星野が殺されたシーンは音楽とスローモーションで、残酷なシーンが美しく表現され、なんか夢の世界で起こっているようなふわふわした感じで、逆に印象的だった。この映画はふわふわ~と現実離れしたところもあれば、旅行先での映像など妙にリアルなところもあった。やはりつかみどころがなく、理解できないことが多かったので、もう一度ゆっくり観てみたいと思う。
 
 

最後の観賞

 投稿者:やまちゃん  投稿日:2009年 8月11日(火)15時39分19秒
返信・引用
   観る前に先生が「この映画は話題になったから知っている人も多いかも」とおっしゃっていたが、題名さえも聞いたことがなく、最初から最後まで初めて観る映画ばかりで、このような映画もあるのか、という発見の連続であった。

 リリイ・シュシュのすべてを観てまず感じたことは、今問題となっている出来事を詰めすぎでは、ということだった。万引き、援助交際、いじめ、レイプ等々。1つの学校の生徒たちが、ここまで様々な問題に直面することはないだろう。まあ映画にそんなこと言ったらなにも始まらないかもしれないが。でも、荒れている(?)学校は全体としての雰囲気がよくないから、みんなその雰囲気にのまれてしまう、ということはあり得るのかなあ。

 いじめていた男の子を、いじめられていた男の子が殺すシーンは予想がついた。でもほかのシーンは「え、なんで?」という疑問が残ることもあった。いじめられてた子、いじめていた子、その二人がネット上では「出会えて良かった」と言っていたことを考えると、なんだかむなしくも悲しくもなった。そして、顔、名前のわからないインターネットとは恐ろしいなあとも思った。使うときは、十分な注意が必要、と高校までに先生方に言われてきたことを思い出した。

 この映画も、ほかの映画と同様、意味がわからないところが多々あったが、きっとそこにはいろんな意味が含まれているのだと思う。この授業で観たすべての映画を、自分の中で何かが変わったとき、成長したと感じたときに、もう一度、ゆっくりと観たい。
 

疲労感

 投稿者:ほりかな  投稿日:2009年 8月10日(月)21時09分58秒
返信・引用
   「リリイ・シュシュのすべて」を観終わった後、私の中に残ったのは、何とも言えない疲労感と、この映画は一体何だったんだろうという気持ちでした。今まで、この総合演習の中で、何本もの映画を観てきたくせに、結局私には、最後までこの映画が伝えようとしていることがわかりませんでした。
 唯一この映画の中で面白いと思えたのは、女優の稲森いずみさんが、自分似のお母さん役を演じていたことです。クラスメートが星野のお母さんについて、「稲森いずみに似てる。」なんてセリフを言うシーンがありましたが、思わず、「いや、似てるどころかまんま本人じゃん。」とつっこみたくなってしまいました。今思うと、全体的に重苦しかったこの映画の中で、あのシーンだけが、心が休まる瞬間だったような気がします。あとは、いじめだとか、援助交際だとか、とてもリラックスして観ていられるような内容ではありませんでした。特に、それまでいじめの首謀者格だった男子が、泥の中を犬かきで泳がされていたシーンや、久野さんが頭を坊主にしてきた場面は、とてもリアルに描かれていて、思わず目をそらしたくなるほどでした。そして、そんなシーンを、市原隼人さんをはじめとする、今テレビや映画で活躍している人たちが体当たりで演じていることにも、強い衝撃を受けました。
 星野も蓮見も、ネット上でしか自分の気持ちを表現することができなくて、特に蓮見にとっては、そこでようやく通じ合える仲間を見つけることができたと思ったのに、それが自分をいじめていた張本人である星野だったなんて、なんとも皮肉な話だと思います。同時に、どうして星野はそこまで、蓮見や久野さんなど、自分の大切なものを壊そうとしたんだろうとも思いました。星野も蓮見も、ネット上では、お互い「リリイ・シュシュ」という存在を通じて、確かに理解し合えていたのに、どうして現実世界ではいじめる側といじめられる側に別れてしまうのか、疑問でなりませんでした。逆にいえば、本当に大切なものをすべて壊したいのであれば、ネット上とはいえ、気の合う仲間を見つけ、さらに、その人物に会いたがっていた星野の行動は、矛盾しているのではないかと思いました。
 他にも、印象に残ったのは、凧あげをしていた時の津田さんの笑顔でした。津田さんは本当に楽しそうで、何もなければ、本当はこんな風に笑えるんだと思いました。だからこそ、あのシーンの後すぐに、津田さんが死んでしまったのには驚きました。
 最後に、一つ疑問なのですが、星野たちが西表島に旅行に行った時に出会った旅人は、この映画の中でどんな意味を持っていたのでしょうか。私の中でよくわからないまま、その男性は事故にあって死んでしまったのですが、あれは、星野たちに「死」を実感させるためだったのでしょうか。その疑問を解消するためにも、あまり気ののらない部分もありますが、機会があれば、もう一度一からこの映画を観なおしてみたいと思います。
 

不思議な関係

 投稿者:たかげん/特1  投稿日:2009年 8月10日(月)11時15分12秒
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  「リリィ・シュシュのすべて」を見て感じたのはインターネットという虚構の世界の怖さというものを感じました。今の時代たいていの人が掲示板であったりSNSで誰か知らない人とつながっていることが多々あります。映画の中でも蓮見と星野は会えてよかったというくらいの中です。しかし現実は彼らには上下の関係ができてしまい、蓮見はその関係に苦しむ。なんか、もっと面と向かったコミュニケーションがもっと必要なんだと。どこかしら、人間関係が希薄化するという現象があるのだと思う。
あと、映画の中でハンディカムでとったような映像がありました。私はその中で出てくる光がすごく印象的でした。なんかそのシーンをみるとすごい現実の嫌なことからいったん離れて、今生きれていることに純粋に楽しんでいるように感じられた。私は特に津田詩織をしてるシーンの映像は好きです。
最後に、映画の中の子供たちは中学生というせっていで、私は映画をみて自分はどんな中学生だったか、ふっと考えさせられた。まぁ、世代的には映画よりは時代は進んでいる気もする。今のじだいを生きる中学生はたまに「えっ、中学生」と思うくらい大人っぽい感じがすごいします。けど、どの時代に生きようがあのくらいの年代は特有の悩みに苦しむんだろうと思う。そこは変わらないとこなんだと。
また、何年か後にでもこの映画をみたいと思う。
 

溺れた魚

 投稿者:すなえ  投稿日:2009年 8月10日(月)02時10分1秒
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   「リリィ・シュシュのすべて」見たことがないと思っていたら、何だか断片的に記憶があって、以前見たことがあったようです。その時はあの始まりから訳がわからず寝てしまったのだと思いますが、今回は最後から最後まで目をそらさず見ることが出来ました。
 映画を見ていて、埋もれたり溺れたりするシーンが印象的でした。蓮見が藁?か何かの間に入っているシーンが何回か、久野は羽根(布団の羽根かな?)の中に。それから、蓮見は理容室のパーマをかける時に使うあの機械(名前分かんない)の中に顔を埋めていました。たくさんの感情や、抜け出すことの出来ない世界に埋もれていく映画の中の子どもたちを綺麗に映し出しているような気がしました。星野が沖縄で溺れたシーンでは、星野の揺れている感情、揉まれていく思考、星野の何かがはじけたというより溶けた印象を受けました。星野の行く末については沖縄の人に忠告されたり、お金をばらまいたりといった点からも見受けられました。沖縄に行く前から星野や蓮見たちかどうなっていくかは判っていましたが、その過程の中にも映像として予兆を織り込んで、理解を促していたように思います。
 他には、背景と少年少女の正反対と言っても過言ではないような重なりが気になりました。夕陽の綺麗な背景の前には星野。綺麗な緑の中に蓮見。それから津田も最後に登場していました。子どもたちの純粋が故の過ちを映し出していると感じました。
 ネットの世界で出来あがっていく輪、というのもなかなかカオス。その中でしか感情を吐露しない蓮見がネットの中にはまっていく現実の子どもたちと重なりました。
 とにかく映像が綺麗であったこと、それと一緒に映し出される子どもたちのどろどろとした渦巻いた表情や行動、感情には何か共鳴めいたものを感じました。
 

私の知らない世界

 投稿者:いとさよ  投稿日:2009年 8月 3日(月)10時18分46秒
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   「リリィ・シュシュのすべて」は、どうも言葉であらわしにくいです。もともと文字だけの小説だったはずなのに、映画の中でも、掲示板のやりとりとしていろいろな言葉がとびかっていたというのに……。どんな表現媒体も、それだからこそ伝わるものがあります。音楽にしかあらわせないものもあるし、言葉でしかあらわせないものもある。それと同じように、映画でしかあらわせないものを、表現している映画ということなのでしょうか。あるいは私が、それほど映画にのめりこむことができなかった、というだけかもしれませんが。
 この映画は、ストーリーはよくわからなかったし、テーマがひとつに絞られている気もしません。全体としてのストーリーよりも、個々の要素、たとえばそれぞれの登場人物の様子にスポットをあてているように思います。でもこの映画は登場人物がけっこう多いですよね。だから、人によって誰を注意して見るか変わってくるのではないでしょうか。私が一番気になった登場人物は、かなり脇役ですが音楽の先生です。主人公は子どもたちだと思うけど、子どもに向き合う教師のほうが、今の私には気になります。あの先生には、ちょっとがっかりしてしまいました。最初に出てくるのは、蓮見くんが万引きをして、つかまったところでしょうか。「これが…先生?」と疑いたくなるような頼りなさ。HRや音楽室で指導をするときも、蓮見くんと面談するときも、いまいち威厳がないし、セリフも響いてこない。子どもたちの側には、教師からは想像もつかないような世界が広がっている。私は映画でそういう世界を見たけれど、教師はその世界を見ることはありません。脇役だからかもしれませんが、それにしてもなんて無力なのだろうと、ショックを受けました。私はいじめをはじめとした、さまざまな問題に関わったことはほとんどなく、そこまで荒れたクラスメイトもおらず、ものすごく平穏な学校生活を送れたので、そういう点では、自分の知ることのできなかった中学生の世界を見られた映画です。

 ひとつ嬉しかったことがあります。それはドビュッシーの楽曲が出てきたことです。子どもたちにはあまり馴染めなかった私ですが、クラシック好きな私はドビュッシーの音楽を通してなんとか映画に入っていきました。映像がきれいだという点から、入っていった人もいるかもしれませんね。そう考えると映画には入り口が複数あるんですね。リリィ・シュシュがドビュッシーとサティを尊敬しているということだったので、そこからリリィや、リリィファンに近づけるかなと思いつつ観ていました。
 しかし逆に、ドビュッシーの美しい音楽がなかったら、この映画を観続けるのは厳しかったのではないかとも思います。ストーリーの中身には残酷ところがたくさんあったから。色彩豊かな、きれいな映像と音楽で、ストーリーとのバランスをとっているのでしょうか。でも、だからといって9月1日や、久野さんが襲われるシーンなどの衝撃が軽減されるかというと、そうでもありませんでした。光にあふれてまぶしいけれど、やたらスローモーションなそれらの場面は、鮮烈に脳裏に焼きつきます。
 

寓話の世界

 投稿者:まつろう  投稿日:2009年 8月 2日(日)12時04分22秒
返信・引用
  「なんという軽い映画なんだろうか。」というのが私のこの映画を見た直後の素直な感想である。今まで見てきた映画のストーリーはすべてにおいて一本のしっかりとしたブレない芯が通っていて製作者側の思いが強く表れていたように感じた。しかし今回の映画は完全に今流行りの携帯小説と似たような、主人公の周りに次々と不幸が訪れ、その姿に感動させる、いわば感動の押し付けのような感覚にしかならなかった。しかし先生が最後におっしゃった「監督はこれを寓話と表している」との言葉、そして、見て「少し古い時代の映画だなぁ」とすぐに分かる現実の社会をそのまま切り取ったような映画の中の世界の二つのことから改めて考え直すと「安っぽい三文映画」という感想の他に新たに「安っぽい三文小説から映画を作ろう」という気概が見えてくるような気がした。
 私がこの作品を見ていて一番理解に苦しんだところが主人公たちのやっている行動と、周囲に背景がどうしてもマッチしないことである。まだ。東京や都会の子どもたちであったならば映画で起こった出来事があってもそれほど不思議ではない。だが主人公の住んでいる所は下手をすると「天然コケッコー」と同じような田舎の描写であり、いかにもスタンドバイミーが可能な場所である。そんななかでこれでもかと衝撃的な事件が起こる。ではなぜ監督はこの様に異物と異物を組み合わせて見る人にしっくりしないようなつくりにしたのか。
 それは監督自身が「こんな世界はリアルじゃないよ」と強く意識して作っているからに他ならない。今までの映画の世界はありふれた世界を切り取ったり、現実に起こっている世界から監督が何らかのメッセージを持たせたり、事件や出来事を映したりと「リアル」をとても意識していたように思う。だがこの作品は違うのである。もう最初から監督自身が「リアル」を投げ捨てていて、完全に「想像」のなかで作品を作ってしまっている。これは言ってみればアニメやマンガの類の枠であり、「○○の実写版」のような感じである。例えとしては現在上映中の「サマーウォーズ」がそれである。私はまだ見てはいないが、この映画は近未来のさらに進化したネット世界と昔ながらの日本の夏の家庭風景を対照的に描きながらもそれらを複雑に絡ませあって物語が進行していく作品だという。
 私は監督がこの作品と同じような気概でこの作品を作ったのではないかと考える。その考えとはつまり、寓話という非現実の世界を前提にしながらも、「これらのことがこれから起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。それは全く分からないがこの映画をきっかけにして少しでも考えてみよう」というものではないだろうか。そして、何故アニメではなく、実写で撮ったかというとただの寓話では終わりたくない、「嘘からでた真」、「寓話から生まれた現実」を見る人に強く意識させることが監督のそして製作者たちのねらいだったのではないだろうか。
 

補講

 投稿者:  投稿日:2009年 8月 1日(土)09時51分34秒
返信・引用
  補講のお知らせ
諸般の事情により、下記日時に実施。
自由参加ですので、よろしく。

8月10日(月)13時~
MENU;映画を見る(2つ)+座談会+?
集合場所:F棟のF研究室

よろしく
 

思春期特有の

 投稿者:まきひこ  投稿日:2009年 7月27日(月)06時43分42秒
返信・引用
   僕もみなさん同様フランス映画は初見でした。フランス映画のイメージとしてはオードリー・ヘプバーンが出てくるような、『ローマの休日』とか『ティファニーで朝食を』みたいな感じを予想していたので全然違って初め戸惑いました。
この映画は典型的なフランス映画ということでしたが、独特のBGMやどこか大人びたような映画の雰囲気、映画を観終わって、自称映画好きがフランス映画を好むというのがなんとなくわかりました。

 今回の映画も総合演習で一貫して取り上げてきた子どもに関する問題はもちろん、人種差別や格差社会の問題が絡み合って描かれていました。主人公のヴィクトールは久しぶりにパリの街へと帰ってきて、フェリックスという裕福な少年と出会い、お互い読書が好きという共通点から親交を深め始める。このシーンを観ていて、そういえば自分も中学生の頃は自分の好きなバンドのCDとかをやたらと貸し借りしていたことを思い出しました。こうやって自分と共通の趣味を持つ人を見つけ、共有することに喜びを感じたり、「友達だよね」と確認しあうところなど、「仲間意識」を高めようとするのは思春期独特の不安からくる一つの特徴なのではないか思いました。また、犬を飼えないからといった些細な理由から家を出で行こうとしたり、ガソリンの闇取引をしているブブルという少年の取引に首を突っ込んでみたりと、ちょっと悪いことをしてみたいとか自分の行動に抑制がかけられなくなってしまうあたりなど、今思えばいい思い出だが、思い当るところがあるなと微笑ましく感じました。
 しかし、この興味本位で首を突っ込んだ取引で運悪くフェリックスが怪我をしてしまい、ユダヤ人であることや身分の違いからフェリックスと会うことを拒絶されてしまいます。ここではフェリックスがヴィクトールを拒絶したのか親が会うことを禁止したのかはどっちでもよく、思春期の頃の友情関係の脆さを表していたのではないかと思います。僕も中学時代の仲間で今も仲良くしている奴もいますが、当時はさっきまで仲良く話していたのに、そいつがいなくなった途端にそいつの悪口を言う、そしてはぶくというようなことを何度か経験しています。こういったことが起こるのも思春期の一つの特徴であり、みなそういったことを経験して大人になっていく。そういった意味では僕もヴィクトールと同じころにサンドイッチの年がきていたのかと思います。中身は何だったんだろう…人によっては中身がたくさんある人もいるんだろうなぁ。

 この映画のいい話をぶち壊すような屁理屈ですが、サンドイッチって普通具とパン一緒に食べますよね?でもこの映画だと人生はパンだけを食べるような時期の間に具を食べるような中身の濃い時期が挟まれていると言っている。だからパンと具を別々に食べている印象があるんですが勘違いですか?
 だからふと思ったんですが「おにぎり」なんてちょうどいいかなと。『おにぎりの年』……ヒットしそうにないですね。
 

からし

 投稿者:すなえ  投稿日:2009年 7月27日(月)01時35分19秒
返信・引用
   初めてフランス映画を見ました。ヴィクトールの印象は、まさに「子ども」でした。やんちゃと言ったら可愛すぎるけれど、浅はかと言ったら言い過ぎで、いやでも確かに思慮が足りない場面がいくつも。目の前のことしか見えていない、いや、目の前のことも見えていない?何だか突っ走っちゃうタイプなんでしょう。彼の人生の中では、家族を失い、変な取引に乗っかってそれがキッカケで友人を失うといった、精神的にとても辛い出来事が起こっていました。「何やってんだもう~~」なんてちょっといらっとする場面もあったり‥。しかし最後のマックスおじさんの言葉たちが、それらの出来事を綺麗に包んでくれていました。
 今回の映画では、少年が大人へ成長する第一歩が映し出されているように感じました。大人になり、老人になり、味のある人生を送れていたら幸せです。「マヌケな病気の老人、だが幸せだ」とマックスおじさんが言っていましたが、それは彼のサンドイッチがおいしく出来上がっているからでしょうかね。その中にヴィクトールとの出逢いも含まれているのでしょう。マヌケでも病気になっても、辛いことがあっても、その部分はからしみたいな、食べると涙が出る時、また、楽しいこと嬉しいこと、その部分はおいしい部分の時というように全て具材になっている。その味を思い出せるかどうかがカギなのではないでしょうか。今は味気ない人生だと思っていても、もしかしたら本当は味があって思い出せていないだけかもしれない。マックスおじさんは素敵ですね。ヴィクトールの言った「キュウリもほしい」という言葉は、ただのお茶目な(?)切り返しというわけではなく、とても前向きな気持ちを上手くあらわした言葉だったのですね。素敵な映画だったと思います。
 

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